SF2K LAB.

DTMの過去と現在、自分流音楽理論など

DTM

自分が歩んできたDTMというものを少し振り返ってみる【1990年代】

自分が歩んできたDTMというものを少し振り返ってみる【1990年代】

よりリアルな音を求めるように

PC-9801という国民機

時は過ぎ、高校時代。
思えばかなり長いことX1turboIIを使ってましたですね〜。
5年くらい使ってたのかな?
そんだけ使ってて、ついぞFM音源は謎のままなわけですがw

その頃僕はバンドに傾倒しまして、軽音楽部でギターをやっておりました。
といっても、オリジナル曲をやるような意識高い系バンドではなく、「THE・クラブ活動」な感じのゆる〜いコピーバンドをやってました。
いくつかのバンドを掛け持ったり、ヘルプしたりで、結構節操無くいろいろ演奏してました。
BOOWYに始まり、バービーボーイズ、THE BOOM、レピッシュ、JUN SKY WALKERS、ユニコーンなどのこれぞバンドブームなラインナップ、そして洋楽ではT・REX、クイーン、BEATLESとかもやってたり。うーん、節操ないですねw

そもそも思春期丸出しの私は、ギターをやり始めたのも、モテたいとかそういう邪な動機だったので、これまた意識高い本気の人には遠く及ばず、高校3年間でビギナーの域を抜けることができなかったヘッポコっぷり。
でもなぜか自分で曲を作りたいという想いだけはなぜか持続したんですね。
当時の作曲スタイルはもっぱら(ヘタな)ギターに歌・・・以上。みたいな感じだったわけですが、自分的には小中時代に感銘を受けたゲームミュージックを作りたいというのがずっと根底にありました。

ただ、この頃(1991年頃)もう世の中的にも結構進化していて、MIDIという先進技術(と当時思ってた)でリアルな打ち込みがコンシューマーにも手が届く時代になってました。
そうなると、手元にあるX1とFM音源というセットがもの凄くチープに感じるわけです(バチ当たり)。

とはいえコンピューターでの打ち込みは、まだ専用音源やシンセサイザーなど高価な機材を揃えてやる「プロの領域」というイメージがあったわけですが、ローランドから発売された「ミュージくん」という音源とソフトがセットになったパッケージがそれまでのコンピューター音楽の常識を塗りかえてしまったんじゃないでしょうか。
僕はその後継機の「ミュージ郎」になってから存在を知りました。

これまた店頭でデモを初めて聞いたときはマジでたまげましたね。自分の持ってるFM音源というものとは、全く違う次元でのリアルな音色。
今でこそPCM音源系はROMプラーとか言われて、ヘタすれば蔑称にすら使われてしまう感じですが、当時はサンプリングされた生楽器系の音は耳に新しく、時代の進化を心の底から感じました。

いやもう、これしか無いと思いましたね、ホント。
そして金策へ・・・w

高校生ともなれば、アルバイトも幅が広がり、自分の頑張り次第でなんとかできるようになってたのもあり、とにかくがむしゃらにバイトしまくって、お金を貯めました。
でも貯めても貯めても届きません。PC-9801というパソコンはやはり高校生にはハードルが高かった。。。

小学生の時にX1を買ってもらって以来、月のお小遣い以外一切もらえない(自業自得ですが)という縛りを最大限利用して、これからのパソコン時代の到来を説き続け、将来への投資というもはや詐欺師の口上のような、なりふり構わない説得が功を奏し(だまくらかして?)PC本体とモニタのセットをゲットしました。そして、これまでのバイトの貯金を「ミュージ郎500」に使ったのは言うまでもありません。

こうして、FM音源8音の世界から、PCM音源24音(+LA音源)の世界へと劇的な進化を遂げました。

レコンポーザ時代

ミュージ郎には(のちの)「バラード」というシーケンスソフトが付属しており、マウス操作で入力できるという当時としては結構先進的な操作方法だったのですが、そもそもマウスというもの自体に馴染みがなく、なんだかまどろっこしいなあと思ってました。

X1のVIPは楽譜入力ですが、操作は当然のようにキーボードだったので、マウスでちまちまと音符を入力するというスタイルに全然馴染めません。
で、どういう経緯で知ったのか、記憶があいまいなのですが、カモンミュージック社の「RCP-PC98」という数値入力シーケンサーの存在を知り、速攻で導入しました。マウス入力の「バラード」からすれば全く異なるコンセプトのソフトなので、これはこれで最初は面食らってしまいましたが、慣れるにつれどんどん入力スピードもアップし、いまどきのJKのスマホ入力の指使いばりの速さまで熟練度を上げました。

ソフトもバージョンアップで名前がレコンポーザ98となり、国産PCでのシーケンサーソフトとしては結構なシェアがあったんじゃないでしょうか。
グラフィカルだけどその分描画とかがちと重い「バラード」と違って、レコンポーザはとにかく動作が軽く、キーレスポンスもめっちゃ速かったように記憶してます(思い出補正ありかも?)。

使い込むうちにいろいろと頭打ちするところも出てきたり、欲しい音が入ってなかったり、雑誌とかでいらぬ情報を入手してしまったりで、やがてミュージ郎付属の音源モジュールCM-500だけでは満足しない身体になっていくわけです(またか)。

また時は少し流れ、高校卒業して就職の道を選んだ僕はここでちょっと色気づいてしまいますw

音楽やるならMacでしょ?

VISIONのインストールディスク

VISIONのインストールディスク

Macintoshという外国製のべらぼうに高価なパソコン

8bit時代(1980年代)に群雄割拠していた各メーカーはやがてNECというメーカーにシェアが集中し、16bit機がメインの時代には、PC-9801が国民機と呼ばれるほどに普及しました。
まさに戦国の時代から、ひとつの幕府が平定するような感じですね。

当然他のメーカーもいろいろ個性的な16bitマシンを出すのですが、もうユーザー数が圧倒的すぎてソフト開発メーカーがPC98のみに集約してきてました。
(といっても全体で見ればパソコンを所有すること自体がまだまだニッチな時代ではありました)
そんな中で黒船よろしく的に、とある業界だけはシェア比率が逆転しているメーカーがありました。
そう、ご存知Apple Macintoshですね。

その昔MacはPC界のロールスロイスとかポルシェとか言われてた時代があったそうです。
とにかく高い、もう頭おかしいんじゃないかってくらい高価だったらしい(僕はMacのその時代を知りません)。
でもデザインとかのクリエイティブを生業とするユーザーからは圧倒的な支持を集め、「クリエイティブならMac」という風潮がまことしやかにありました。
PC98(1989年頃)が当時モニタセットで50万とか(それでも今に比べればビックリ価格)の時代にMac(Ⅱci)は本体のみ100万超えとかしてたわけですよ。

故にMacは(憧れではあるけど)自分には関係のないものだと思っていたところ、いや、そう言い聞かせていたところ、LCシリーズという低価格ラインナップが出てきちゃったんです。
高嶺の花だと思って諦めてたところに、ちょっと頑張れば手が届くかも的な感じになってしまったのでさあ大変、てなわけです。

当時は今みたいにOSでのプラットフォーム的な概念はまだちゃんと確立されておらず、独自規格がはびこっていた時代。
PC98は国産マシンでなおかつ国内シェアナンバーワンなわけなので、インターフェースからなにから独自規格なわけです。
(ソフトが対応するOSは基本MS-DOSだがそれすら別売り)

一方、Macの方も独自規格ではあるものの、クリエイティブ業界ではシェアが高いので、周辺機器も結構豊富にあり、シーケンスソフトやMIDIインターフェイスなども様々なメーカーから出ていました。
Macの当時のOSは漢字Talk7だったと記憶してます。MS-Windowsなどはまだ実用的ではないレベルの時に、グラフィカルなインターフェイス(GUI)に日本語も一応ちゃんと使えて、OMSというMIDIを扱うための規格もあり、すでにシーケンスソフトも85年にMOTUからPerformer、87年にOpcodeからVision、90年にSteinbergからCUBASE、92年頃にはemagicからLogicが続々とリリースされていて、Windowsがブレイクするきっかけとなった95年にはMacのMIDIシーケンサーはすでに4大タイトルを擁するプラットフォームになってました。

そんな時代背景の中、これまでずっと国産のパソコンを使ってきた自分史上、歴史に残る決断(大げさ)を下しました。
「音楽やるならMacでしょ?(キリッ」と。

ボーナス2回分+ローンで、Macintosh LC475とApple ColorDisplay13、Opcode VISION、MIDIインターフェイスのOpcode Studio4を清水の舞台から3回ほど飛び込んで即死する覚悟で1994年頃に購入。

ここから舶来マシンでの音楽生活が始まります。

舶来品はじゃじゃ馬??

安くなったとはいえ結構な大枚はたいて購入したMac。しかし、これまで数値入力に慣れきった身体にはインパクトが大きすぎました。
そもそもイデオロギーが違い過ぎて、割りとすぐ心がポッキリ逝きましたw

これまで使ってきてたPC98はまだフロッピーでソフトを立ち上げるタイプのシングルタスクマシン。
一方、MacはOSという基幹ソフトがまず立ち上がって、ソフトをインストールして、複数のソフトを同時に立ち上げる事ができる擬似マルチタスク。
この考え方にまず混乱するわけです。

周辺機器を使うためにはドライバソフトというものが必要で、その機能を都度拡張していくという現代では当たり前すぎる仕組みですが、当時は大いに混乱しました。要するに、機器をつないでも認識しない場合の対処の仕方がわからんわけです。
といいつつ音楽機材系ではそんなにトラブルはなかったんですが、グラフィカルで高機能なシーケンスソフトまわりの方が大変でした。

あまりの違いでソフトを勉強することに時間を取られ、そのうち熱意というか、気持ちがやや離れていきます。
というとちょっと語弊がありますが、要するに面倒くさくなっていったんですねw

せっかくMac買ったのに、なんだかんだでこのあとしばらくDTMから離れます。
今にして思えば、シャレオツなMacというパソコンを買った、というその事実に結構満足しちゃって、使いこなすための修練を怠ったんですね。
これまでは、「音楽を作りたい」という情熱を具現化してくれるツールとしてPCがあったのですが、この頃からプロも使ってる○○を使えばもっと便利に(楽に)いい音楽が作れるんじゃないか?という、才能がないことへの逃げ発想が自分の中で大きくなっていきます。

だから、機材を手に入れても、別に楽にならないし、それどころかやれることが一気に増えすぎてそれに逐次対応できない。
結果的に手に入れた機材を眺めることで満足するという最悪の状態に陥りましたw

1990年代のまとめ

1998年QY70の広告

1998年QY70の広告

時代の進化とともに、ある程度自分で稼いだ金を投入できる状況にもなり、より良い機材を求める一方、その機材のポテンシャルに過度の期待を寄せ、大事なことを見失っていく時代でした。
若さもあり、新しいもの好きな性格も相まって、機材はいっちょまえに揃えても技量が全くついていかず、そのギャップに絶望し、やる気を損なう最悪のループに陥ってたなと思います。

80〜90年代となんだかんだでDTM的な活動をやってきているように思えるかも知れません。
ところがどっこい。残念ながら、基礎的なことをきちんと理解せず、なんとなくでやってきてるので、実はほとんど身になってないんですね。
しかもMacになって出来ることが増えたことで逆に、本来音楽を作る目的すらも見失ってしまう始末。

ここで、耳コピして打ち込みの練習とか研究とかを真面目にコツコツとやっていたら、もっと違う人生になってたかも知れません。
まあ、タラレバ言ってもしょうがないんですけどね。

次は、少しブランクを置いての2000年代になります。

URL
TBURL

LEAVE A REPLY

*

Return Top